和田研究所:積極的な健康管理

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ミス日本コンテスト

ミス日本誕生のきっかけと特質

ミス日本の誕生は、太平洋戦争終結直後に遡ります。そのころの日本は、衣・食・住の全てが不足しており、子供たちの多くが栄養失調でした。それを救ったのはアメリカの「Licensed Agencies for Relief in Asia : アジア救援公認団体」から送られてきた脱脂粉乳などの食料や衣類でした。それらは団体の頭文字をつないで「LARA(ララ)物資」と呼ばれ、日本復興への大きな救いとなりました。これに対して、1947年7月の衆議院本会議で緊急の感謝決議が採択されています。

それから3年後の1950年に、あらためて米国民に感謝を伝えるための女性親善使節を送ることになり、選抜のために開催されたのが『ミス日本コンテスト』でした。その結果、渡米親善使節つまり初の『ミス日本』として選ばれたのは、後に大女優となり、昭和時代の美人の代名詞ともなった山本富士子さんでした。彼女の持つ「柔かさの中に秘められた鋭さとゆるぎなさ」=「凛とした気品」は、日本女性の新しい美の基準となりました。しかし、ミス日本コンテストはその後しばらく中断してしまいます。これを1967年に復活させたのは、痩身健康美容として「日本フィギュアリング法」を提唱実践し、テレビ美容体操の指導者としても脚光を浴びていた和田静郎を代表者とする和田研究所でした。そして、1970年の大阪万博開催に当たっては、岸信介元総理の親書を持って各国を訪れ、万博成功への道を開く一助を担いました。

日本では明治時代から美人コンテストが行われてきましたが、それは写真による美貌(顔立ち)のみが審査の対象でした。しかし、欧米化が進むとともに美意識が肉体美へと移行するのに伴って、ミスコンの多くは八頭身に代表されるプロポーションへと審査の比重を変えてきました。そんな中で、ミス日本の第一の特徴は「容貌」「容姿」に加えて、「教養」や「心映え」を重視することにあります。それは、第一回開催の精神をかたくななまでに尊重し継承しているからです。もう一つの特徴としては、国際大会のための日本代表を選ぶのではなく、日本国内において完結する『日本女性の美の最高位』として栄冠を贈ることにあります。

こうして選ばれた歴代のミス日本たちは、女優として輝きを増している藤原紀香、アカデミー賞ドキュメンタリー監督として1999年にオスカーを獲得した伊比恵子、医学博士および保健学博士として医学と美の接点を探り続けている手塚圭子、日本画の新風として新聞小説の挿絵を手がけた中村麻美、そのほか中央官僚として、あるいはTVキャスター、国際ジャーナリスト、経済研究者として、それぞれ有意義な社会活動を続けています。なお、OGと現役が企画立案して行動する団体「ミス日本ボランティア協会」は、ミス日本をめざす女性たちの手本となる活動を行っており、目標にもなっています。

一般社団法人ミス日本協会理事 加藤和郎

ララ物資記念碑写真 大阪万博において、各国へ渡す親書を岸信介総理より受け取る様子

写真上:ララ物資記念碑
ララ物資が荷揚げされた横浜新港埠頭には、皇后様の御歌を刻んだ記念碑が立っています。

写真左:大阪万博開催へ向けて
各国へ渡す親書を岸信介元総理より受け取る様子。左より、和田静郎、岸信介元総理、ミス日本グランプリ鈴木紀子。

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